映画『国宝』を観ました。
心に残ったのは舞台の豪華さ以上に「人の心を分かろうとする」営みの尊さでした。
芸能も芸術も、そして私たちの日常も、本質はそこにあるのでは?と考えさせられたのです。
曽根崎心中と「心を想像すること」
映画の中で二度出てきた演目『曽根崎心中』。
役者は登場人物の気持ちを想像し、自らの身体を通して表現します。
菊雄が代役で大役を任された稽古の際に、お初になっていないから、その声が表現できないんだ、という意味合いのセリフがありましたが、役者はその役になりきる=その心を理解する、体感することで、演技をする。
一方、観客はその表現を受け取り、人の「好き」という気持ちや、苦しみ、切なさを追体験する。
それは、歌舞伎が生まれた昔から、人々に人気があったことを考えると、
芸能の本質――人の心を分かろうとすること、ということなのでしょうか?
そう思えてきたのです。
昔も今も変わらない人の楽しみ
数百年前の物語に、現代の観客が涙するのはなぜでしょうか。
それは、人間の感情が昔も今も変わらないからです。
恋する心、孤独、別れの悲しみ。
時代や形式を越えて、私たちは「他者の気持ちを想像すること」に喜びを見いだしてきたのでしょうか。
人の人生を追体験することで、価値観を広げ、日常をより豊かに過ごせるようになったのでしょうか。
登場人物の思いを想像することで、より自分の感情の表現も豊かになり、日常をより豊かに過ごせるようになったのでしょうか。
芸術・芸能・デザインに共通するもの
- 芸も芸術も、人の心を分かろうとすることに、人は豊かさを見出している
- デザインも、人の心のをわかろうとすることで、よりよいものがつくれる。
この気づきは、ジュエリーにも当てはまります。
装身具は単なる装飾ではなく、「贈る人の思い」や「身につける人の時間」を表現するものです。
芸術も芸能もデザインも、本質は同じ――人の心を分かろうとする営みの上に成り立っています。
まとめ
芸術は一見すると「なくても生きていけるもの」に思えるかもしれません。
けれども、人は誰しも他者の心を知りたいと願い、その営みの中に楽しみを見いだします。
だからこそ芸術は消えないし、ジュエリーもまた続いていくのです。
「人の心を分かろうとすること」――それは、人間にとって最も贅沢で、最も大切な生きる営みなのだと感じました。
コメント