物の本質を知るということ― 魯山人に学ぶ、見る力と生きる美 ―

物の本質とはー魯山人に学ぶ物の理

魯山人は、「技術と美術が伴って、芸術になる」と語りました。
しかし同時に、「物の本質を見る芸術は、技巧が精密でなくとも得られる」とも述べています。

この二つの言葉のあいだにこそ、
彼の美の哲学の核心――“物の本質を知ること”――が息づいていると考えます。

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物を見るとは、自分を脱ぐこと

魯山人にとって「見る」とは、単に目で観察することではありません。
それは、自分の価値観や知識を一度脱ぎ捨てる行為でした。

たとえば、野菜を描くとき。
「これは大根だから、白くて丸い」と思ううちは、まだ“観察”にすぎません。
だが、心を澄ませて見つめると、そこに土の湿り気、陽の光の筋、命の張りが立ち上がってくる。

それが、物の本質を見るということだというのです。
命を感じる、とでも表現できましょうか。

そこには、作り手の都合や評価の意識は入りません。
あるのは、ただ「この世界が、今ここに在る」という静かな事実だけです。

技巧よりも、感応する心

魯山人は、料理人であり、陶芸家であり、書家でもありました。
しかし彼の手の技術を支えていたのは、
どんな分野にも通じる“感応する心”でした。

彼にとって器とは、土や火の声を聴く場所。料理とは、素材と対話する時間。

「上手に作る」ことよりも、
素材の生命をどう生かすか――そこに芸術の真実を見出しました。

つまり、技巧とは“物を支配する力”ではなく、“物と語り合うための言葉”なのです。
ここに、東洋的美意識の髄を感じます。

本質を知るとは、命を見ること

魯山人の器には、生命感があります。
それは、形の美しさではなく、素材が生きた時間そのものが器の中に宿っているからです。

たとえば、焼き締めの土のざらつき。
釉薬のわずかな流れ。
火が通り過ぎた痕跡。

それらは“失敗”ではなく、“自然の声”です。
人の手と自然の力が拮抗し、どちらも譲らなかった痕跡にこそ、
魯山人が求めた「真の美」が立ち現れるというのです。

現代を生きる私たちにできること

物の本質を知ることは、スピードと効率に満ちた現代では、忘れられがちな態度です。
今の社会で価値があると言われていることに対し、価値を提供したつもりになり、
対価を求める、何か、単なる社会生活が空虚な空回りのように感じる時が、あるのです。

けれど、日常をアトリエと考え、物の本質を知るための生活はできると思います。

  • 朝の光を、ただ見る。
  • 器の重さを、手で確かめる。
  • 食材の色や匂いを感じる。

そうして感覚を取り戻すたびに、人間は“本来の美”と再び出会うはずです。
また、
そういう生活を通してしか、物の本質を知る、という段階にはいけないように思います。

本質に還る眼差し

魯山人が示したのは、「上手に作れ」という教えではありません。

物の声を聴け。
命の理に従え。

それが、あらゆる創造の根にある“見る力”です。
それが、必要なんだと、今の自分を見返しても感じます。

技巧は継承されなければやがて衰えます。
しかし、本質を見抜く眼差しは、人生を通して成熟していきます。

そしてそれこそが、静かな輝きを放つ「生きる芸術」そのものなのだ、と改めて納得しました。

人生後半戦の私は、
これからどう生きるかを、真剣に考えるべき時期にきたと感じています。

生涯を通して、何を求めて努力していきたいのか、
そのためには、どうすることが必要なのか、
どういう姿が理想なのか、

しっかりと考えて、1日1日を大切に生きていきたいです。
物の本質を捉えたり、とらえられなかったり、
自分の完成度の感覚を、そういう目で見ながら、高みを目指したいと考えています。

物の本質とはー魯山人に学ぶ物の理

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この記事を書いた人

ジュエリーデザイナー26年
ジュエリー職人4年 CAD1年
ジュエリーブランドディレクター10年
製作が好きで飛び込んだジュエリー業界で様々な経験を積みながら
品があるデザイン、上質といえる技術を模索。
”静寂なる輝き”を極める旅を続けています。

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