デザインとは、デザイナーが自分の感性や個性を形にすること。
一般的には、そう考えられているのではないでしょうか。
独創的なアイデアを生み出すこと。
これまでにない形をつくること。
ほかの人にはない「自分らしさ」を表現すること。
もちろん、それもデザインの一つです。
しかし、プロダクトデザイナーの深澤直人さんのデザイン思想に触れると、
デザインには、もう一つの異なる態度があることに気づかされます。
参照:デザインの生態学
それは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、
人と物、身体と空間、行為と環境の間に、
すでに存在している関係を発見することです。
私はこの「デザイナーが主観だけでデザインしない」という考え方に、強く共感しました。
ちょうど、協働しようとしないデザイナーと仕事をすることになり、
違和感を感じた時に、本を読んだのです。
しばらく前に出版されたものですが、
その内容は普遍的な考え方に触れることができる内容です。
デザインとは「はまる境界線」を見つけること
深澤直人さんは、デザインを、何かと何かの「折り合い」をつけることとして捉えています。
身体と空間。
人と道具。
素材と機能。
形と行為。
内側から働く力と、外側からかかる力。
これらの関係が矛盾なく整うと、
そこに
「はまる境界線」
が現れます。
その形は、デザイナーが自由に発想して生み出したというよりも、
初めからそこにあったものを発見したようなもの。
なぜこの形なのかと聞かれても、
そこには表面的な装飾や奇抜な理由があるわけではなかったりします。
ただ、「これしかない」と感じられる。
深澤さんのいう「はまる」とは、
そのような、物と環境の関係における必然性なのだと思います。
デザインとは、何もないところから新しい形をつくることではなく、
さまざまな条件の中に隠れている「あるべき形」を見つけること。
その考えにとてもしっくりくるものを感じました。
デザイナーの主観から出発しない
私が特に共感したのは、
デザインをデザイナー個人の主観や自己表現だけに
閉じ込めないという考え方です。
デザイナーが
「私はこう思う」「私はこれが美しいと感じる」
というところから形をつくり始めると、
そのデザインには作者の意図が強く現れます。
一方で、作者の意図が強くなりすぎると、
使う人に意味や感情を押しつけることになります。
見えすぎると、格好悪い、醜いデザイン、だと書かれていました。
そういう感覚は、私にもあります。
デザインする側が、
「このように感じてほしい」
「このように使ってほしい」
「この意味を理解してほしい」
と決めすぎるのは、自身の価値観を押し付けているようにも感じ
デザイナー側がカリスマ的天才的存在の時はそれでいいと思いますが、
普通の人であるなら、それが、デザイナー商品でないなら
個人の価値観を押し付けている状態が
どうも美しいと思えないのです。
しかし、デザインの意味は、本当に作者だけが決めるものなのでしょうか。
一つの物であっても、使う人の身体や記憶、置かれる場所、
時間、状況によって、その意味は変わっていきます。
作者が意味を完成させるのではなく、
物と受け手が出会ったときに、初めて意味が発生する。
その余地を残しておくことが、いいデザインの重要なポイントだと思うのです。
主観を捨てるのではなく、主観を超えて見る
ただし、
「主観でデザインしない」ということは、
デザイナーが自分の感覚を持たないという意味ではありません。
むしろ反対です。
人や物、環境の間にある微細な関係を感じ取るためには、
非常に高い感受性が必要です。
身体が何を心地よいと感じるのか。
人がどのようなときに自然に手を伸ばすのか。
なぜ、そこに物を置きたくなるのか。
どの程度の厚みや重さが、その人の動きに合うのか。
何が説明されなくても理解されるのか。
こうしたことは、数字や言葉だけでは捉えきれません。
主観をなくすのではなく、自分の好みをいったん脇に置き、
目の前で起きている現象を丁寧に観察する。
「私はこうしたい」より先に、
「人と環境の間では何が起きているのか」を見る。
それは、デザイナーが自分を消すというより、
自分の感覚を、自己表現ではなく発見のために使うことなのだと考えます。
アフォーダンス——身体はすでに答えを知っている
深澤直人さんのデザインを理解するうえで重要なのが、
「アフォーダンス」という考え方です。
アフォーダンスとは、環境の中に存在し、
人間や動物が身体によって発見する「行為の可能性」を指します。
たとえば、ちょうどよい高さの平らな場所があれば、
人はそこに腰を掛けるかもしれません。
壁際にわずかな隙間があれば、傘を立てかけるかもしれません。
手に自然になじむ窪みがあれば、説明されなくても、そこに指を添えるでしょう。
そこに「座ってください」「ここを持ってください」と書かれていなくても、
身体は環境との関係を読み取っています。
つまり、価値は物の中だけにあるのではありません。
物の形と人間の身体、
周囲の環境、
そこで行われる動作の関係によって、
価値が現れるのです。
デザイナーの仕事は、
使用者に行為を命令することではありません。
こう感じてください、と押し付けることでもありません。
人間の無意識の行為を観察し、
その行為が無理なく現れる環境を整えることです。
「アクティブ・メモリー」が呼び起こすもの
私たちの身体には、意識していなくても残っている記憶があります。
使い続けた道具の丸み。
手のひらになじむ器の厚み。
残り少なくなった石鹸を扱うときの感触。
物を壁に立てかけるときの角度。
何かを一時的に置きたくなる場所。
普段は言葉にしませんが、身体はその感覚を覚えています。
深澤さんは、意識の表面からは消えていても、
現在の行為の中に生き続けている記憶を
「アクティブ・メモリー」と捉えています。
優れたデザインに出会ったとき、
私たちは「初めて見た」と思うと同時に、
「なぜか、これを知っている」と感じることがあります。
それは、デザインが身体の中に眠っていた記憶に触れるからです。
デザイナーが新しい意味を与えたのではなく、
受け手が自分の中にあった感覚を再発見する。
この少し遅れて訪れる気づきに、
デザインの静かな喜びがあります。
デザインの意味は「込める」のではなく「発生する」
デザインに意味を込めるという言葉は、よく使われます。
けれども、意味を込めようとしすぎると、
作者の意図が形の前面に現れます。
見る人、使う人に対して、ある一つの解釈を要求してしまうからです。
深澤さんの考え方は、俳句にも通じるように感じます。
俳句は、作者の感情を直接説明するものではありません。
その場所にあった光景や、季節の変化、音、温度、動きを描くことで、
読み手の中に感情が生まれます。
「私は悲しい」と書くのではなく、目の前で起きている現象に徹する。
その客観的な描写を通して、かえって作者の心情がにじみ出てきます。
デザインも同じです。
作者が意味を説明し尽くすのではなく、
物と人と環境の関係を丁寧に整える。
その物に触れた人が、
自分自身の経験や記憶を通して意味を見つける。
作者と受け手の間に残された距離が、
デザインを豊かなものにするのだと思います。
日本的ミニマリズムとは、形を減らすことではない!
深澤さんが語る日本的ミニマリズムも、
単に形を簡素にすることではありません。
非常に興味深いです。
装飾が少ないこと。
白や無彩色で統一されていること。
直線的で静かな形をしていること。
それらは、ミニマルな表現の一部ではあっても、本質ではありません。
深澤さんの考えるミニマリズムとは、特定の機能を満たしながら、
それ以外の可能性を消さずに残すことです。
たとえば椅子は、座るために作られています。
しかし人は、背もたれに上着を掛けたり、
座面に本を置いたり、立ったまま少し身体を預けたりもします。
これは、最初から複数の機能を付け加えた「多機能な椅子」とは違います。
身体がそのときの状況に合わせて、
環境の中から価値を発見できる余地が残されているのです。
形を減らすことよりも、可能性を限定しすぎないこと。
それが、多様性を残すデザインです。
制約の中に、必然の形を見つける
デザインには、常に制約があります。
素材、
技術、
価格、
構造、
強度、
製造方法、
身体の大きさ、
使われる場所、
文化的背景。
一般的には、制約はデザイナーの自由を妨げるものと思われがちです。
しかし、制約が何もなければ、何を根拠に形を決めればよいのでしょうか。
深澤さんのデザインでは、複数の制約が、テトリスのように組み合わされていきます。
素材と身体。
機能と形。
製造方法と触感。
物と周囲の空間。
それぞれの条件がぴたりとはまると、
矛盾や余分な要素が一つずつ消えていきます。
その結果として、最終的な形がシンプルになる。
つまり「引き算のデザイン」とは、最初から簡素な形を目指すことではありません。
複数の条件を統合し、
余計な矛盾を解消した結果として、
形が自然に絞られていくことなのです。
個性は、形の癖ではなく「何を見つけたか」に現れる
ここまで考えると、一つの疑問が生まれます。
デザイナーが自分の主観や作家性を前面に出さなければ、
個性のないデザインになってしまうのでしょうか。
私は、そうではないと思います。
個性は、必ずしも奇抜な形や、
ひと目で作者が分かる造形に現れるものではありません。
何を見ているのか。
何と何の関係が見えているのか。
その判断の積み重ねに、デザイナーの固有性は現れます。
「自分らしい形をつくろう」とするのではなく、
自分にしか感じ取れなかった関係を、
できる限り正確に差し出す。
結果として、そこにその人らしさがにじみ出る。
個性とは、初めから形に付け加えるものではなく、
徹底した観察と判断の先に、
後から現れるものなのかもしれません。
ジュエリーデザインにも、すでに答えは存在している
この考え方は、ジュエリーデザインにも深くつながっています。
ジュエリーは、小さな彫刻として眺めるだけのものではありません。
身体に着けられ、人の動きとともに存在するものです。
指とリングの厚み。
耳の角度とピアスの重さ。
首の動きとネックレスの落ち方。
金属の硬さと、皮膚の柔らかさ。
装着するときの手の動き。
衣服との距離。
光を受けたときの表情。
こうした関係から離れて、形だけを考えることはできません。
美しい形を思いつき、
それを身体に載せるのではなく、
身体と素材の間にすでにある関係を見つける。
ジュエリーが人を飾りすぎるのでもなく、
人の存在に従属するのでもない。
人とジュエリーが互いの存在を引き出し合い、
自然に「はまる輪郭」を探す。
そこに、私が考えるジュエリーデザインの本質があるように思います。
感受性とは、自己表現ではなく「すでにある価値」を感じ取る力
私はこれまで、感受性について考えてきました。
感受性という言葉は、感情が豊かであることや、
個性的な表現を生み出す能力として理解されることがあります。
しかし、本来の感受性は、自分の内側だけに向かうものではないと思います。
周囲の環境に何があるのか。
人と物の間で何が起きているのか。
誰も言葉にしていない価値が、どこに存在するのか。
何が自然で、何がわずかにずれているのか。
それらを、先入観を持たずに感じ取る力です。
デザイナーの仕事は、自分の感性を見せることではなく、
感性を使って、自分の外側にある価値を発見することなのではないでしょうか。
深澤直人さんの思想から私が受け取ったのは、
デザインの技術の説明だけではありません。
それは、自分の主張をいったん脇に置き、物事をよく観察し、環境の声を聞き、
そこにある必然を見つけようとする「生きる態度」でもあります。
デザインとは、自分の痕跡を強く残すことではない。
人と物と環境の間に、もともと存在していた調和を見つけ、その関係を静かに整えること。
そして、使う人が説明されることなくその価値を発見したとき、
デザインはその人の無意識の中に、
初めて「はまる」のだと思います。

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