やさしさを、個人の努力だけに任せていないか
それが、やさしさを「個人の性格」だけに任せないための、ひとつの方法なのだと思います。
やさしさの前には、「気づく」という行為がある
人を助けることを考えるとき、私たちはつい「行動」に目を向けます。
席を譲った。
声をかけた。
荷物を持った。
道を教えた。
けれど、その行動の前には、必ずひとつの段階があります。
それは、
「気づくこと」
です。
誰かが困っていることに気づく。
少し不安そうな表情に気づく。
いつもと違う様子に気づく。
その場の空気の変化に気づく。
気づかなければ、やさしさは始まりません。
そう考えると、
やさしさの問題は、倫理だけの問題ではなく、
人がどれくらい周囲を感じ取れる状態にあるのか
という、感受性の問題でもあるのだと思います。
情報が多すぎる場所。
時間に追われる生活。
常にスマートフォンを見ている状態。
効率やスピードばかりを求められる環境。
そうしたものは、便利である一方で、
私たちが周囲の小さな変化を感じ取る力を、少しずつ弱めているのかもしれません。
だから私は、
「もっとやさしくしましょう」
と言うだけでは、少し足りないように感じています。
その前に、
人が人に気づける社会をどうつくるか。
そこから考える必要があるように思います。
6歳の子供と対話するにあたっても、
最近そういうことを意識するようになりました。
気づける人間になるには、
情報にあふれる環境から、自身で必要な情報を選び、
精神的に整う生活を自らできる必要がある、と考えています。
効率の良い社会と、やさしい社会は同じなのか
現代の社会では、多くのものが効率化されています。
移動は速くなり、
買い物は便利になり、
情報は瞬時に届き、
仕事も短時間で多くのことを処理できるようになりました。
もちろん、それは社会の大きな進歩です。
けれど、効率を高めることと、
人が幸せになることは、
必ずしも同じではありません。
速く歩くことが正しい場所では、
立ち止まる人は邪魔になります。
大量の情報を見ることが普通になれば、
目の前にいる人より、画面の中の情報の方が優先されます。
自分の予定をこなすことで精一杯になれば、
他者の小さな変化を感じ取る余裕はなくなっていきます。
便利になったはずなのに、なぜか人は疲れている。
人とつながりやすくなったはずなのに、どこか孤独を感じる。
情報は増えたのに、大切なものが見えにくくなっている。
そこには、
私たちがこれまで「豊かさ」だと思ってきたものを、
一度考え直す必要があるように思います。
これからの社会に必要なのは、さらに多くのものを足すことではなく、
人が感じるための余白を取り戻すこと
なのかもしれません。
デザインは、ものの形だけをつくるものではない
私はデザインに関わる仕事をしてきました。
デザインという言葉を聞くと、
多くの人は、色や形、見た目の美しさを思い浮かべるかもしれません。
けれど本来デザインとは、
ものの形を整えることだけではありません。
人がどう感じるか。
どう動くか。
どこで立ち止まるか。
何に気づくか。
どんな関係が生まれるか。
そうしたものまで含めて考えることが、デザインです。
たとえば、
「ここで席を譲ってください」
という注意書きを増やすことだけが、デザインではありません。
誰かが困っていることに自然と目が向く配置にする。
助ける行動を特別なものにしない。
声をかけるための小さなきっかけをつくる。
人と人との間に少しだけ交流が生まれる仕組みをつくる。
そこまで考えることができれば、
デザインは、人の行動や社会の空気そのものにも関わることができます。
「やさしさ」ではなく「勇気」を考える
そしてもうひとつ、
私は「やさしさ」と同じくらい重要なのが、
勇気
なのではないかと思っています。
困っている人に気づいても、
実際に声をかけるためには、小さな勇気が必要です。
「大丈夫ですか?」
その一言を口にするだけでも、
知らない人に話しかけることに慣れていなければ、少し緊張します。
席を譲ろうとして、
「必要ありません」
と言われるかもしれない。
助けようとして、
「余計なお世話だ」
と思われるかもしれない。
周囲の人から、
自分だけ目立っているように感じるかもしれない。
だから、
やさしい気持ちを持っていることと、
実際に行動できることの間には、
少し距離があります。
その距離を埋めるものが、勇気です。
そして、その勇気さえも、個人だけに求める必要はないのかもしれません。
誰かが行動したときに、周囲がそれを肯定する。
助けることが自然な文化になる。
親切をした人が、少し嬉しくなるような仕組みがある。
そんな環境があれば、
一人ひとりが出さなければならない勇気は、小さくなります。
つまり、
勇気もまた、環境によって支えることができる。
そう考えることができます。
社会を変えるのは、大きな制度だけではない
社会を変えるというと、
法律や制度、行政、大きな企業の取り組みを想像しがちです。
もちろん、それらは重要です。
けれど社会は、
もっと小さなものによってもつくられています。
駅の案内表示。
椅子の配置。
言葉の選び方。
店員の声かけ。
学校のルール。
職場の空気。
街の照明。
人と人との距離。
そうした小さなデザインの積み重ねが、
私たちの行動をつくっています。
だからこそ私は、
日常の中にある小さな違和感を、
見過ごしたくありません。
「なんとなく居心地が悪い」
「なぜかここでは声をかけにくい」
「ここでは人が急いでいる」
「ここにいると、少し心が穏やかになる」
そうした感覚の中には、
数字では測りにくいけれど、
人の行動や幸福に深く関わるものが隠れています。
それを丁寧に感じ取り、
問いに変え、
形や仕組みに変えていく。
そこに、
これからのデザインができることがあるのではないかと思っています。
感受性のある社会へ
私は
感受性とは、
単に「繊細であること」ではないと考えるようになりました。
周囲の変化を感じる。
人の気持ちを想像する。
違和感に気づく。
美しいものに心が動く。
何かがおかしいと感じる。
そして、
感じ取ったものを、自分なりに考える。
そこまで含めて、感受性なのだと思います。
もし、人がもう少し周囲を感じ取れるようになったら。
困っている人に気づく人が増えるかもしれない。
誰かの小さな悲しみに気づけるかもしれない。
季節の変化や、美しいものに足を止める人が増えるかもしれない。
そして、自分自身が疲れていることにも、
もっと早く気づけるかもしれません。
感受性を高めることは、
単に美しいものを理解するためだけではなく、
人が人らしく生きるための力を取り戻すこと
なのではないか。
私は今、そんなことを考えています。
やさしさを、個人の善意から社会のデザインへ
「もっとやさしくしましょう」
その言葉自体は、もちろん間違っていません。
けれど私は、その先を考えてみたい。
なぜ、やさしくできないのか。
なぜ、気づけないのか。
なぜ、声をかけられないのか。
そこにある環境や仕組みまで見つめることで、
やさしさを個人の努力だけに背負わせない社会をつくることができるかもしれません。
人が気づける余白をつくる。
小さな勇気を出しやすくする。
違和感を見過ごさない。
他者を想像する力を取り戻す。
私は、そうした一つひとつの積み重ねの先に、
人が人にもう少しやさしくなれる社会
があるのではないかと思っています。
そして、それはもしかすると、
「やさしい人を増やす」ことではなく、
人の中にすでにあるやさしさが、自然に表に出てくる社会をデザインすること
だとも思うのです。

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