親切は、社会の中で見えにくい
私たちの社会には、目に見えにくい価値がたくさんあります。
誰かが少し道を譲ること。
困っている人に気づき、声をかけること。
急いでいる人のために、一歩引くこと。
場の空気をやわらかくするために、言葉を選ぶこと。
それらは、大きな出来事ではありません。
ニュースになるわけでもない。
数字として残るわけでもない。
誰かに評価されるわけでもない。
けれど、そうした小さな配慮によって救われている人は、確かにいます。
少し安心する人がいる。
自分も誰かにやさしくしようと思う人がいる。
「社会はまだ悪くない」と感じる人がいる。
見えないけれど、確かに存在しているもの。
それが、日常の中にある「社会のやさしさ」なのだと思います。
見えないものは、軽く扱われやすい
現代社会では、目に見え、測ることのできるものが重視されます。
売上。
成果。
数字。
効率。
スピード。
評価。
もちろん、それらは社会を動かすために必要なものです。
けれど、その一方で、数字になりにくいものは見過ごされやすくなります。
やさしさ。
思いやり。
余白。
安心感。
気づき。
場の空気。
人が少し前向きになれる感覚。
こうしたものも、人と人との関係や社会を支える大切な潤滑油となる要素です。
それなのに、見えにくい。
見えにくいから、評価されにくい。
評価されにくいから、社会の仕組みの中にも組み込まれにくい。
私はそこに、ひとつの違和感を感じました。
大切だけれど、見えにくいものを、社会の中でもっと「価値」として認識できるようにできないだろうか。
そのための方法のひとつが、「見える形に変換すること」なのではないかと考えました。
見える化とは、数値化することだけではない
「見える化」と聞くと、何かを数字で測ることを思い浮かべるかもしれません。
何件あったのか。
何人が参加したのか。
どのくらい改善したのか。
どれだけ効果があったのか。
社会に実装する以上、指標や測定はもちろん必要です。
けれど、やさしさや配慮のようなものを、数字だけに置き換えてしまうと、その大切な質感が失われることもあります。
たとえば、
「今日は親切が100件ありました」
と表示されても、それだけで人の心が動くとは限りません。
私が考える見える化は、誰かの行動を監視することでも、善意を点数化することでもありません。
それまで見えにくかった価値に、人が気づけるようにすること。
そして、
「こういう価値が、この社会には確かに存在している」と感じられるようにすること。
見える化とは、管理のためだけではなく、気づきのためのデザインにもなり得るのだと思います。
光のように。静かな地図のように。
では、目に見えないやさしさを、どのように表すことができるでしょうか。
誰かの小さな親切が、ひとつの花として咲く。
誰かの配慮が、やわらかな光として灯る。
その場所に生まれた小さな行動が、一日の終わりに静かな地図のように浮かび上がる。
そんな表現も考えられます。
もちろん、個人を特定したり、行動を監視したりするものではありません。
大切なのは、
「あなたの行動を見ています」
と伝えることではなく、
「この場所では、今日も誰かが誰かを気にかけていた」
と感じられることです。
花や光にすること自体が目的なのではありません。
目的は、それまで見過ごされていた価値の存在に、人が気づける状態をつくることです。
人は、経験することで「見えるもの」が増えていく
先日、休日の昼間に、駅の改札内の窓際で眠り込んでいる人を見かけました。
真夏日で、そのまま寝ていれば熱中症になるのではないかと思い、駅員さんに伝えに行きました。
すると、先に同じことを伝えていた人が二人ほどいらっしゃいました。
それを聞いたとき、私は少し安心しました。
自分だけではなく、同じようにその人を気にかけた人がいた。
それはとても小さな出来事ですが、「見えないところで人は人を気にかけているのだ」と感じた経験でもありました。
また、子どもが小さかった頃、ベビーカーで移動していると、階段で声をかけてもらったり、一緒に運んでもらったりすることが何度かありました。
自分自身が当事者になって初めて気づいたこともたくさんあります。
それまでは何気なく通っていた階段が、とても大きな障害になること。
ほんの少し誰かが手を貸してくれるだけで、状況が大きく変わること。
そして、その経験をしてからは、ベビーカーを押している人や、困っている人を見る自分の目線も変わりました。
人は経験することで、見えるものが増えていく。
これは、感受性について考えるうえでも、とても重要なことだと思います。
けれど、すべての人がすべての立場を経験することはできません。
だからこそデザインには、自分が当事者でなくても、
これまで見えていなかった他者の状況に気づくきっかけをつくるという役割も考えられます。
「やさしさに気づける環境」とは何か
たとえば、駅の階段に、
「ベビーカーに配慮しましょう」
と書くだけでは、人の行動はなかなか変わらないかもしれません。
けれど、
「この階段では昨日、ベビーカーを一緒に運んだ人がいました」
という事実が静かに示されていたら、そこを通る人の目線は少し変わるかもしれません。
「そういう場面があるのだ」と気づく。
「自分だったらどうするだろう」と想像する。
そして実際に困っている人を見かけたとき、「自分にもできるかもしれない」と思える。
あるいは、
「困っている人を見かけたら、ここから駅員を呼ぶことができます」
と、行動の選択肢を分かりやすくしておく。
これもまた、やさしさが生まれやすい環境のデザインです。
つまり、大切なのは、
気づく
→ 想像する
→ 自分にもできると感じる
→ 行動する
という流れをつくることです。
デザインが人を直接「やさしい人」に変えることはできません。
けれど、これまで見えていなかったものに気づき、別の行動を選べる環境をつくることはできる。
私はそこに、デザインのひとつの可能性を感じています。
やさしさは、連鎖する
やさしさは、一人の中だけで完結するものではありません。
誰かに親切にされた人は、少し安心する。
安心した人は、別の誰かに少しやさしくできるかもしれない。
誰かの行動を見た人が、「自分もそうしてみよう」と思うかもしれない。
やさしさは目に見えにくいけれど、確かに連鎖します。
ただ、その連鎖はとても静かです。
命令されて生まれるものでも、制度だけで生まれるものでもありません。
むしろ、
「この場所には、人を気にかける人がいる」
「自分もその一部になれる」
「小さな行動にも意味がある」
と感じられる環境の中で、少しずつ広がっていくものなのだと思います。
だから、やさしさを見える化することは、単に親切を記録することではありません。
次のやさしさが生まれやすくなる土壌をつくること。
そのためのひとつの方法なのです。
感覚に届く形でなければ、人は動かない
社会をよくするための正しい言葉は、すでにたくさんあります。
思いやりを持ちましょう。
困っている人を助けましょう。
周囲に配慮しましょう。
やさしい社会をつくりましょう。
どれも正しい言葉です。
けれど、正しさだけで人が動くとは限りません。
人は、論理だけではなく感覚によっても動いています。
美しいと感じること。
心地よいと感じること。
少し安心すること。
自分もその一部になりたいと思うこと。
そうした感覚が生まれたとき、人は自然に行動しやすくなります。
だから、見えない価値を社会に実装するためには、正しいメッセージを掲げるだけではなく、人の感覚に届く形へ翻訳することも必要なのだと思います。
それが、花かもしれない。
光かもしれない。
言葉かもしれない。
空間かもしれない。
デザインとは、見えない価値を、誰かが感じ取れる形へ変換することでもあるのです。
やさしさの可視化は、社会の美意識を育てる
私は、やさしさを見える形にすることは、社会の美意識を育てることにもつながると考えています。
美意識とは、美しいものを選ぶ力だけではありません。
何を大切にしたいのか。
どんな行動を美しいと思うのか。
どんな人との関係を心地よいと思うのか。
どのような社会で生きたいと思うのか。
そうした判断の積み重ねも、美意識です。
もし社会が、速さや効率だけではなく、
誰かに気づくこと。
少し立ち止まること。
一歩譲ること。
必要以上に奪わないこと。
そうした行動も「美しいふるまい」として共有するようになったら。
社会の空気は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
つまり、何を見えるようにするかは、
私たちが何を価値あるものとして扱うのかを決めること
でもあります。
見えない価値を、社会の中に置き直す
私が「見えない価値を社会の中に置き直す」と考えているのは、単に美しく可視化することではありません。
これまで個人の中で生まれ、そのまま消えていた小さな配慮を、
「私たちの社会が大切にしたい価値」
として、もう一度社会の中で共有できる状態にすることです。
誰かに席を譲る。
困っている人に気づく。
少し待つ。
少し道をあける。
こうした行動は、法律で命令して生み出せるものではありません。
けれど、
「この社会では、そういう行動を美しいと思う」
という空気を育てることはできます。
そのためにデザインができるのは、人を強制的にやさしくすることではありません。
今まで見えていなかったものに気づけるようにすること。
そして、
気づいた人が、自分で次の行動を選べる環境をつくること。
それが、私の考える「見えない価値を社会の中に置き直す」ということです。
気づくものが増えれば、選べる行動も増えていく。
一人ひとりの小さな選択が積み重なれば、これまで個人の善意として存在していたものが、少しずつその場所の文化になっていく。
そして、その文化が、また次の人の行動をつくっていく。
感受性が高まると、社会を見る目が変わる
感受性を高めるというと、感情を豊かにすることのように思われるかもしれません。
けれど私は、それだけではないと思っています。
感受性が高まるとは、今まで見えていなかったものが見えるようになること。
誰かの困りごとに気づく。
誰かの小さな配慮に気づく。
自分が受け取っていたやさしさに気づく。
その場の空気の変化に気づく。
見えるものが増えると、私たちはそれまでとは違う選択をすることができます。
そして、一人ひとりが気づけるものを少しずつ増やしていくことができれば、社会のあり方もまた、少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
「感受性を育てることは、個人の内面を豊かにするだけではない。
社会の中で、何を大切にするのかを選び直していくことでもある。」
私は、そんなふうに考えています。



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